徳川家康氏の生きがいに学ぶ人生の意味:厭離穢土欣求浄土が導くIKIGAIの軌跡
現代を生きる私たちが直面する問いと徳川家康氏の軌跡
日々、様々な方々が人生の岐路に立ち、これからの意味を模索する瞬間に立ち会うなかで、常に実感することがあります。仕事や家庭において一定の達成を果たした方々の多くが、「これからの人生の時間をより価値のあるものにしたい」「大切な人と共に、より有意義な時間を過ごしたい」という深い願いを抱いておられます。社会的な責任を果たし、物質的な豊かさを手に入れたからこそ浮かび上がる、「自分は残りの時間を何に捧げるべきか」という根源的な問い。それは、感性と知性の両方を大切にされる方々にとって、避けては通れない内面への探求でもあります。
そうした方々が求めるのは、一時的な気休めや表面的な成功法則ではありません。人生の重みを引き受け、日々の営みの中に確かな意味を見出すための深みのある指針です。その指針を、日本発の概念である「IKIGAI」や「生きがい」という言葉に求める声は、世界中で高まり続けています。生きがいとは、単なる仕事の目標ではなく、朝目覚める理由であり、困難な時期を乗り越えるための内なる活力でもあります。この「いきがい」という深いテーマを考える上で、日本史上最も過酷な試練を乗り越え、比類なき平和な時代を創り上げた一人の人物の生涯が、私たちに強烈な光を投げかけてくれます。それが、徳川家康氏です。
徳川家康氏は、およそ100年続いた戦国時代という終わりの見えない争いの世を収束させ、長きにわたる安定した社会体制を確立しました。その歩みをたどると、単なる武将としての成功だけではなく、「なぜそれを続けるのか」という問いに幾度も直面し、向き合い続けてきた人生が見えてきます。氏の人生は、決して華々しい連戦連勝の物語ではありません。愛する者を失い、絶対的な権力者に翻弄され、幾度も生死の境を彷徨いました。しかし、その苦難の道程において、氏は常に自らの果たすべき役割を見つめ直し、個人的な欲望を超えた先にある大いなる目的に向かって歩みを進めました。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という名言が遺訓として後世に広く伝えられているように、人生の重責から逃げず、1歩ずつ着実に歩みを進める精神は、氏の哲学の底流に流れています。この記事では、徳川家康氏の仕事を始めたきっかけ、数々の過酷な人生の転機、次世代へと向けた重厚な仕事観、そして氏を支え続けた揺るぎない生きがいを通して、人生の真の意味について深く考えていきます。
この記事を読むことで、過去の歴史的事実がいかにして現代の私たちの悩みと共鳴し、明日を生きるための力強い叡智となり得るかを実感していただけるはずです。「IKIGAI」や「ikigai」という言葉の奥深さを理解し、ご自身の人生における新たな意味を発見する旅の始まりとして、氏の軌跡を共に辿ってまいりましょう。
戦乱の世を終わらせた徳川家康氏の横顔と揺るぎない理念
徳川家康氏は、1543年に三河国(現在の愛知県東部)に生まれ、のちに征夷大将軍として江戸幕府を開いた歴史上の偉大な指導者です。現在は、日本史上最長となるおよそ200年以上にも及ぶ太平の世を創り上げた人物として、国際的にも極めて高い評価を受けています。氏は、武力によって覇権を争う戦国の世を終わらせ、法と秩序に基づく安定した社会体制を築き上げました。
氏の生涯を貫く理念を象徴する言葉が、「厭離穢土欣求浄土」です。この言葉は、もともとは『往生要集』という仏教書に説かれる言葉であり、「苦悩の多い穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から平和な極楽浄土に往生することを願い求める」という意味を持っています。
徳川家康氏はこの言葉を自らの陣立ての旗印として高く掲げ、生涯の座右の銘としました。多くの戦国武将が自らの領土拡大や一族の繁栄、あるいは個人の名誉を動機として刀を振るうなかで、氏は「この争いの絶えない穢れた世の中を正し、戦いのない浄土のような世の中に変える」という極めて利他的で壮大な志を持っていたのです。氏にとっての政治や戦いは、個人の野心を満たすためのものではなく、社会全体の平穏を実現するための過酷な務めであったと言えます。
大名としての歩みを始めた真の理由と桶狭間の激動
徳川家康氏が、他者の支配から抜け出し、自立した大名として平和な世を創り出すための歩みを本格的に始めたきっかけは、1560年に起きた「桶狭間の戦い」に遡ります。それまで氏は、強大な勢力を誇る今川義元氏のもとで人質としての生活を送っており、この戦いにも今川方の武将として参戦していました。
しかし、この戦いにおいて主君であった今川義元氏が織田信長氏の軍勢の急襲を受けて討ち取られるという劇的な出来事が発生しました。総大将を失い、敵兵に追われる身となった氏は、命からがら逃げ帰り、松平家の代々の菩提寺である三河国の大樹寺へとたどり着きます。
絶望の淵に立たされた当時19歳の氏は、先祖代々の墓前でひざまずき、周囲を野武士の一団に取り囲まれた状況の中でついに自害を決意しました。長きにわたり他国の支配下で辛酸を舐め、御家を守れなかった不甲斐なさを嘆いた若き武将にとって、未来は完全に閉ざされたように見えたのです。しかし、その時、大樹寺の住職であった登誉上人氏が氏を強く諭します。登誉上人氏は氏に「厭離穢土欣求浄土」という言葉を授け、乱世を住みよい浄土にするのが自分の役目であると、生きる意味とその大いなる使命を力強く説いたのです。
この劇的な瞬間に、氏は自ら命を絶つことを思いとどまりました。そして、自らの果たすべき役割は、他者の野望のための駒として散ることではなく、戦乱に苦しむ人々を守り抜き、この世を泰平の浄土に変えることなのだと深く悟ったのです。氏が独立を果たし、仕事を本格的に始めた動機は、「奪うため」ではなく「守るため」でした。絶望の中で授けられた一つの言葉が、日本中から戦を無くさなければ真の安寧は訪れないという、氏の生涯を貫く高次な生きがいへと昇華していく契機となったのです。
人生を根本から変容させた神君伊賀越えの過酷な道のり
徳川家康氏の長い生涯において、最も過酷であり、氏の価値観を根本から変容させた人生の最大の転機が、1582年に起きた「本能寺の変」に伴う「神君伊賀越え」という凄絶な逃避行です。当時、和泉国の堺に滞在して見物を行っていた徳川家康氏は、京都からやって来た商人から、同盟者であった織田信長氏が討たれたという事件を知らされます。
この旅は出陣ではなかったため、周囲にはごく少数の供しかおらず、自らの命も狙われる絶体絶命の危機に陥りました。一時は絶望した氏でしたが、本多忠勝氏らの説得もあり、自国領である三河への帰国を決意します。彼らは、明智光秀氏の軍勢や土豪が蜂起する危険が伴うなか、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける険しいルートを選択しました。
この過酷な道中において、京の商人である茶屋四郎次郎氏による支援や、伊勢の商人である角屋七郎次郎氏の助けなど、数多くの人々の命がけの協力に支えられました。また、堺見物の案内役として同行していた織田方の家臣である長谷川秀一氏も、脱出経路を決めたり国衆への取り次ぎを行ったりと、この窮地を救った1人として名を残しています。家臣の穴山梅雪氏が道中で命を落とすという痛ましい犠牲を払いながらも、氏は無事に三河へ帰還を果たしました。
なぜこれが転機になったのでしょうか。それは、地位や権力が一瞬にして無に帰す現実を骨の髄まで思い知らされたと同時に、極限状態において自分を無私の思いで支え、共に生き延びようとする家臣や協力者たちとの「絆」の強さを深く実感したからです。自らの命が数多くの人々の献身によって生かされているという圧倒的な事実。この経験以降、氏の行動原理は、自らを支えてくれた人々とその子孫が永久に安らかに暮らせる社会体制を確立するという、不動のIKIGAIへと進化を遂げたのです。
類まれなる忍耐力を育んだ人質時代と三河の原風景
徳川家康氏(幼名:松平竹千代氏)の精神的な強靭さと大局的な視座の原点は、その特殊で不遇な幼少期にあります。氏は、幼くして他家で人質としての生活を送ることを余儀なくされました。
氏の父である松平広忠氏が今川氏に同盟の締結を仰いだ際、竹千代氏は人質として駿府へ送られる条件となっていました。しかし、護送の道中で敵対する尾張国の織田信秀氏に強奪されてしまいます。その後、今川義元氏の家臣であり軍師の太原雪斎氏が安祥城を攻め、織田信秀氏の長男である織田信広氏を生け捕りにしたことで、劇的な人質交換が実現し、氏は本来の目的地であった今川家へと移されました。
親元を離れ、常に自らの運命の決定権を他者に握られているという状況は、幼い少年にとって想像を絶する重圧でした。しかし、氏は今川家において単なる冷遇を受けるのではなく、太原雪斎氏のもとで教育を受ける環境の中で成長していきます。最も不自由な環境の中で培われたこの忍耐力と、周囲の状況を冷静に観察する能力こそが、後に天下を治めるための確固たる礎となったのです。
氏の思想と知性を形作った太原雪斎氏の教え
徳川家康氏の高度な知性と政治的思考に最も決定的な影響を与えたのは、今川家における人質時代に出会った太原雪斎氏という傑物です。太原雪斎氏は、名門寺院で開寺した高僧でありながら、今川義元氏を政治・軍事の両面で全面的に補佐した人物です。
前述の人質交換作戦において自ら大将を務めるほどの実戦経験を持つ太原雪斎氏は、徳川家康氏に対して教育を施したとされています。学識と実戦経験の豊富なこの人物から、氏は物事を大局的に捉え、感情に流されず理に基づいて判断する思考法を学びました。
僧侶でありながら軍の総指揮官を務め、同盟や交渉という手段を用いて乱を制する太原雪斎氏の姿は、氏にとって強烈な指針となりました。平和を愛する僧侶ならではの発想である「戦のない平和な時代」というコンセプトの萌芽は、後に氏が天下を平定し、盤石な体制を敷く際に見事に花開いたのです。
為政者として至上の喜びを感じた平和な社会の実現
数々の過酷な道のりを歩み続けた徳川家康氏にとって、仕事における最大の喜び、すなわち最も深いIKIGAIを感じた瞬間は、武功を挙げて領土を拡大した時ではありません。それは、民衆が戦火に脅かされることなく、日々の生活を穏やかに営むことができる平和な社会の実現に向けて、確かな手応えを感じた時でした。
長きにわたる戦乱によって国土が荒れ果て、続く戦で民草が苦しめられる光景を目の当たりにしてきた氏にとって、誰もが明日を信じることができる社会を創り上げることこそが至上の使命でした。大樹寺で胸に刻んだ「厭離穢土欣求浄土」の教えに従い、この争いの絶えない世の中を平和な浄土へと変えていくプロセスそのものに、氏は深い意味を見出していました。
氏は、権力は決して絶対的なものではなく、社会の安定があって初めて成立するという深い人間理解を持っていました。交通の要所を整備し、人々が安心して暮らせる仕組みを整えること。かつての敵味方を超えて、すべての人が恩恵を受けられる社会基盤を作り上げること。それこそが、氏が天下を治めるという重責を引き受けた最大の理由であり、無上の生きがいであったのです。

三方ヶ原での凄絶な大敗北といかにして苦境を乗り越えたか
徳川家康氏の歩みは、決して平坦なものではありませんでした。中でも、氏の人生観に決定的な打撃と深い教訓を与えたのが、1572年に起きた「三方ヶ原の戦い」での凄絶な大敗北です。
当時、上洛を目ざす武田信玄氏の27,000とも言われる大軍が進軍し、これを阻止しようとする徳川家康氏の軍勢11,000が浜松にある三方ヶ原台地で激突しました。武田の騎馬軍の前に徳川勢は大敗を喫し、氏は多くの兵を失い、命からがら浜松城へと逃げ帰りました。これは氏の生涯最大の危難の1つに数えられています。
しかし、氏はこの絶望的な状況下でただ諦めることはありませんでした。武田軍が浜松城から少し離れた犀ヶ崖(さいががけ)という深さ13mもの断崖のある谷付近で野営することを知ると、一矢報いるために決死の夜襲を仕掛けたのです。氏は密かに断崖に白い布を張ってあたかも橋があるように見せかけ、間道から敵陣の背後に鉄砲隊を配して一斉射撃を行いました。夜襲に慌てふためいた武田側の兵や馬は、偽物の橋を渡ろうとして次々と巨大な断崖の谷底へと転落し、武田軍に打撃を与えることに成功したのです。
圧倒的な力の差を見せつけられたこの経験は、自らの血気盛んな判断を省みる強烈な戒めとなりました。思い通りにいかなかった甚大な敗北の直後に、すぐさま知略を巡らせて次の一手を打つ。この逃げることなく現実と向き合う姿勢こそが、氏を天下人へと成長させ、太平の世をつくる確かな礎となったのです。困難を最も価値ある学びへと変換するこの態度に、自らのIKIGAIを確固たるものにするための重要な鍵が隠されています。
日本という国に届けたパックス・トクガワーナという比類なき価値
徳川家康氏がその生涯を賭して社会に届けた最大の価値は、およそ200年以上にも及ぶ未曾有の太平の世、「パックス・トクガワーナ」の創設です。
世界史を紐解いても、これほど長期間にわたって国内で大規模な争いが起きず、平穏が維持された例は極めて稀です。氏は、戦国時代という弱肉強食の価値観を根本から覆し、武力ではなく法と道徳によって社会の秩序が保たれる仕組みを日本中に根付かせました。外国との戦争よりもまず国内の政治安定を最重点政策とし、修復に努めたのです。
何が何でも世の中は平和であらねばならない。この強い使命感のもとで生み出された社会体制は、外国からの侵略や内戦を防ぎ、学問や工芸、美術などの豊かな日本文化を育むための比類なき土壌を提供しました。氏が社会に届けたのは、単なる政治体制ではなく、後世の数え切れない人々が当たり前のように享受することとなる「平穏に生きる喜び」そのものでした。
※パックス・トクガワーナとは?
「パックス(Pax)」とは、ラテン語で「平和」を意味します。古代ローマ帝国がもたらした平和を「パックス・ロマーナ」と呼ぶのになぞらえて、徳川幕府が日本にもたらした約260年間(1603年〜1868年)の平和で安定した時代のことを、「パックス・トクガワーナ(Pax Tokugawa)」と呼びます。
権力への執着を捨て次世代の安寧を願う重厚な仕事観
徳川家康氏の仕事観の中心には、常に「私欲の否定」と「大局的な連続性」がありました。それは、自らが権力の座にしがみつくことを良しとせず、自らの命が尽きた後も社会が平和に機能し続けるための強固な仕組みを残すことに全精力を注ぐという態度です。
その仕事観が象徴的に表れているのは、組織を単なる個人の所有物とせず、次世代へと着実に継承していくためのシステムを構築しようとした点です。天下の平定は個人の栄達のためではなく、再び戦乱の世に逆戻りする火種を早期に摘み取り、安定した治世を永続させるための手段でした。
氏は、自らを偉大な英雄として歴史に刻むことよりも、社会システムを盤石なものとするための基礎となることを選びました。お金や名誉のためではなく、遥か未来を生きる人々の笑顔のために自らの命を使い切るというその姿勢に、真のリーダーとしての重厚な仕事観が息づいています。
厭離穢土欣求浄土に込めた深い祈りと生きがい(IKIGAI)の哲学
徳川家康氏にとっての生きがい、すなわちIKIGAIの核心は、自らの宿命を受け入れ、人々のために穢れた世を浄土へと変えていくという「厭離穢土欣求浄土」の絶え間ない実践にあります。
氏にとって、生きるとは快楽を追求することでも、手軽な成功を収めることでもありませんでした。それは、自らに課せられた社会的責任や、他者の命運という重い荷物を背負い、1歩ずつ確実に前に進んでいくという崇高な責務でした。「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」と遺したように、外側の敵を倒すことよりも、世の平穏を保ち続ける自己鍛錬の過程にこそ、氏は人生の深い意味と揺るぎないいきがいを見出していました。
「及ばざるは過ぎたるよりまされり」という名言が示す通り、氏は常に自らの足りなさを自覚し、やり過ぎてしまう己を戒めました。人生における理不尽な苦難を恨むのではなく、それを自らを鍛え上げ、世の中を良くするための砥石として受け入れる。氏が若き日に大樹寺で授かり、生涯にわたって旗印として守り抜いたこの力強い哲学は、現代を生きる私たちにとっても、困難を乗り越え、自らの存在意義を見つめ直すための極めて実践的な指針となります。
徳川家康氏が思い描いていた武力が意味を持たない元和偃武の未来
晩年の徳川家康氏が最も強く願い、そして実現に向けて執念を燃やしていたのは、「武力が意味を持たない社会」の到来でした。氏が思い描いていた未来は、大坂の陣が終結した1615年に出された「元和偃武(げんなえんぶ)」の宣言に象徴されています。
「偃武」とは武器を伏せて用いないこと、つまり太平の世になることを意味し、幕府からの戦争禁止令のようなものでした。氏は戦乱によって人々が涙を流す時代に永遠の終止符を打ち、武力に頼らない新しい時代を作ることを宣言しました。刀を振るうことの勇ましさではなく、争いを未然に防ぎ、互いを尊重し合うことの尊さこそが、これからの国を支える基盤になると信じて疑いませんでした。
武断政治から文治政治への基礎固めを行い、氏が未来に向けて投じたその強い願いと仕組みづくりは、数百年後の現在に至るまで、私たちの平和を愛する心の底に深く根付いています。
己の道に迷い生きがいが見つからないと悩む現代の人々へ贈るメッセージ
もし、徳川家康氏が現代に生き、人生の岐路で迷い、生きがいが見つからないと悩む人々に言葉をかけるとしたら、どのようなメッセージを送るでしょうか。それはきっと、氏が数々の絶望を乗り越えてきた経験から導き出される、遺訓に残されたこのような励ましになるはずです。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」
現代社会は、物質的な豊かさや情報の利便性に溢れています。しかしその反面、少しでも思い通りにいかないことに対して強い不満を抱きやすく、結果として心に余裕を失いがちです。氏は、「不自由を常と思えば不足なし」と説き、完全な状態を求めるのではなく、直面している試練そのものに意味を見出し、地道に向き合うことの重要性を説くことでしょう。
持っていないものを数えて嘆くのではなく、今ご自身の目の前にある環境や、これまで築き上げてきた絆に感謝し、それを誰かのためにどう活かせるかを考えること。その足元にこそ、あなただけの確かなIKIGAIが眠っていると、氏は温かく、そして力強く語りかけてくれるはずです。
※「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し」について
これは「東照公御遺訓」として非常に有名であり、日光東照宮などでも知られていますが、近年の歴史研究では、家康本人が書いた一次史料ではなく、後世(一説には徳川光圀ら)によって家康の思想をまとめて創作されたとする説が有力です。
徳川家康氏の軌跡から見出すこれからの人生を豊かにするIKIGAIの探求
ここまで、徳川家康氏の波乱に満ちた生涯と、一次情報に基づき明らかになった数々の史実、そしてその奥底に流れる哲学を紐解いてきました。氏の人生から私たちが学び、自らの生きがいを深めるための重要な視点は、以下の3つに集約されます。
- 思い通りにいかなかった経験から目を背けず、最大の学びに変えること:
三方ヶ原での凄絶な敗北を経験した後に、逃げることなくすぐさま犀ヶ崖で奇襲の知略を巡らせたように、困難な経験を自らの成長と次なる行動への糧とすること。 - 極限状態で気づく他者との絆を尊び、無私の思いを持つこと:
伊賀越えという生死を彷徨う逃避行の中で、茶屋四郎次郎氏ら多くの人々の支援に生かされていることを悟ったように、周囲への深い感謝を忘れないこと。 - 世の中を良くするという崇高な目的のために忍耐強く歩むこと:
「厭離穢土欣求浄土」という言葉を胸に、穢れた世を平和な浄土へと変えるための過酷な道のりを、決して急がず、自らの責務として力強く歩み続けること。
これらの視点を踏まえ、皆様が今すぐにできる小さな行動の具体案を一つご提案いたします。
それは、「今日、ご自身の思い通りに物事が進まなかった時、あるいは他者に対して強い苛立ちを感じそうになった時、すぐに行動や言葉に出す前に意図的に10秒間だけ深く息を吸って待ち、その短い時間の中で『及ばざるは過ぎたるよりまされり』と心の中で1度だけ唱え、自らを戒めてみること」です。感情に流されず、自らの内面を冷静に統制しようとするこのささやかな実践の積み重ねが、やがてあなたの心を穏やかにし、新たなIKIGAIをもたらす強力なきっかけとなるはずです。
徳川家康氏がその生涯を賭して、この日本という国におよそ200年以上続くパックス・トクガワーナという比類なき平和な時代を残したように、私たち1人ひとりにも、必ず果たすべき役割と残すべき足跡があります。
What will you leave on this planet?(あなたはこの地球に何を残しますか?)

【執筆:Mermaid nao(マーメイド・ナオ)】アーティスト / コラムニスト
アートを通じて命の可能性と美しさを引き出す活動を行う。国際カンファレンス「THE WING TOKYO2025」での登壇や老舗旅館「名月荘」での展示、Webメディア『プロフェッショナルの選択』掲載など実績多数。
【引用元・参考情報】
- “スギ”のお陰で命拾い? 徳川家康ゆかりの地・岡崎で辿る「天下統一までの道のり」(歴史街道)
- 厭離 穢土 欣求 浄土 の心 神になった男 徳川家康顕彰四百年 – 青森県立図書館
- 徳川家康と浄土宗② ~厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど) – 正覚寺
- 家康公と【厭離穢土欣求浄土】 – カクキュー八丁味噌
- 【どうする家康 記念連載】第五回 厭離穢土欣求浄土 家康公、岡崎への帰還 – ぽけろーかる
- 徳川家康・松平忠明/今西正冬・十市玄蕃頭遠光
- 家康の神君伊賀越えとは?理由やルート・本能寺の変との関連も解説 – 和樂web
- 神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか – 戦国武将のハナシ
- 茶屋四郎次郎、穴山梅雪、長谷川秀一、本多忠勝 ~「伊賀越え」で徳川家康の窮地を救った人々
- 家康伊賀越えの道 京都通百科事典
- 太原雪斎 – Wikipedia
- 天文18年(1549)11月9日は松平竹千代(家康)が信長の兄・信広との人質… – note
- 静岡市清水区ゆかりの“戦国僧侶 ”・太原雪斎<今川義元と築いた今川全盛期 – アットエス
- 自由奔放な「人質」時代だった?【「どうする家康」時代考証の小和田哲男先生が語る「家康の実像」】 | サライ.jp
- 太原雪斎 – BS-TBS
- 犀ヶ崖 | 旅サラダPLUS 観光・お出かけSPOT – 朝日放送
- 三方ヶ原の戦い古戦場:静岡県/ホームメイト – 刀剣ワールド
- 犀ヶ崖資料館 | 静岡・浜松・伊豆情報局
- 犀ヶ崖 – “三方ヶ原の戦い”の後戦の伝承
- 犀ヶ崖古戦場 – 三遠南信地域連携ビジョン推進会議 SENA
- 徳川家康の遺訓 – edu-konan.jp
- 御遺訓 – 徳川家康公について – 日光東照宮
- 徳川家康 遺訓 – 喜界町
- 家康の遺訓|プリントショップサン オフィシャルブログ
- 勝つことばかり知りて負くるを知らざれば、害その身に至る。 おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。 | コンサルタントコラム | 小宮コンサルタンツ
- 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し とは? 意味や使い方 – コトバンク
- 徳川家康公遺訓 – kamogawa-sagan
- ~輝きの子育て~ 徳川家康の言葉
- 徳川家康の言葉で「人の一生は重荷を負って・・・」というのがあるが、その文が載っている本が見たい。 | レファレンス協同データベース
- 徳川家康の「東照宮御遺訓:人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず」が漢文で書かれているものを見たい。 – NDL Search
- 「信長は直線的、秀吉は多角的、では家康は?」来年のNHK大河を見る前に押さえたい3天下人の性格の違い – PRESIDENT Online
- 徳川氏・徳川家康の歴史と徳川家の悲劇|話し手…宮川進 – 越谷探訪
- 【読書】過去に学べ~『もしも徳川家康が総理大臣になったら』(眞邊明人) – note
- パックス・トクガワーナに学ぶ – 如水会
- 平和の武将 徳川家康 | public-relations-blo – 日本近代史を見直す 鈴木荘一
- 【高校日本史B】「家康と秀忠の大名統制」 | 映像授業のTry IT (トライイット)
- 偃 武 の世来たる―大坂の陣終戦400年― – 山口県文書館
- 元和偃武(げんなえんぶ) 2022/02/19 | 徳川家康公の平和に対する深い想いを – Readyfor
- 元和偃武 武断政治から文治政治への基礎固め – CiNii Research
- 岡崎ふるさと巡り「天下人 徳川家康⑫ 元和偃武と家康の遺言」 | ミクスWEBチャンネル
